退職後896日目、快晴の中、空中ヨガをするため
快速電車で東に向かっている。
昨日はジムでヨガをした後、帰り道にあるカフェでランチをいた後、いつもなら食後のケーキと珈琲を頼むところであるが、今回は珈琲だけにした。
馴染みの店員さんだったので、ケーキも頼むと思われているだろうと思い、頼む前に、「ケーキは控えていますので、珈琲だけ」と言い訳しながら頼んだ。(笑)
きっと物足りないだろうと思っていたが、珈琲の美味しさをいつもより感じられて、新しい発見をした感じだった。
いつも見ているブロガーさんの影響もあって、ちょっとだけ珈琲の世界に入ってみようかという気にもなる。
腸活で珈琲とかケーキとか良くないと言われたらやめてみたり、そうかと言えば、その反動なのか、毎日のように食していたり、はたまたケーキを控えめにしたりと、目まぐるしい。
今までの習慣が良くないと感じた時に、いかにそこから抜け出せるか、それには何らかのきっかけが必要だろう。
人が与えてくれる場合とか、自分で生み出す場合とか、神が与えてくれる場合とか様々だと思う。
もちろん、人の殻をかぶった神の場合だってあるだろう。
その経験から、自分の力しか信じられない人、神の力を信じる人、人の力に頼れる人、様々な人の人生が生まれるのだろう。
私の場合は人とか神の力は不確実なので、やはり自分の力で何とかしたい方なので、当然やれる範囲も限られてきて、大きなことが出来ない感じである。
そこを何とかしようとしてスピリチュアルに走ったのかもしれない。
今世の自分はここまでだろうか。
結論を出すにはまだ早いかもしれないし、そうでないかもしれない。
生きるということは、そういう中途半端な状態なのかもしれない。
中途半端だからこそ、どこにでも行ける、と考えたら、ワクワクする。
もちろん不安でもある。
迷ったら振り出しに戻ってみよう。
裸で生まれて、裸で死んでいく、今持っているものは、神が必要に応じて与えてくれているものかもしれない。
そう思えば、今の状況がとても愛おしく思えてくる。
人生も捨てたものではない、と思いたい。
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