心の旅路のブログ

スピリチュアルと本と音楽とヨガが好きな65歳男性の日記です。

退職後936日目、1日中雨予報の日曜日、久しぶりに

家で珈琲を飲みながらハーブアルパートのCDを聴きながらくつろいでいる。


ハーブアルパートは日本では半世紀以上前に深夜にラジオで放送されていたオールナイトニッポンの最初と最後にかかるビタースウィートサンバで有名である。


少し前に、ジャズ喫茶でかかっていたので、懐かしくなって購入したが、最近のお気に入りの一枚で、ヘビーローテーションである。


さて、出歩いた次の日はのんびりくつろぎたくなる。


やはり、緩急が大切である。


そうやって、緩急をつけながら楽しく過ごしたとしても確実に時間は流れて歳をとっていく。


ある意味、意識せずとも、死に向かって必死で歩いているのだが、太陽や月を追いかけても追いかけても手が届かないように、(生きている間は)死に届くことはない。


だから、もっと安心して生きてもよいのだ。


お金が尽きて命が残るより、命が尽きた時にお金が残っていた方がいいが、寿命の減り方に比べてお金の減り方の方が早いので、少し軌道修正が必要であるが、余生で一番若い今を充実させたいとか理由をつけて、そんな自分を許している。


ご褒美の時間と思って、のんびり暮らすか、もう一花咲かせるために、もうひと頑張りするか、ゆっくり考えることにする。(笑)








退職後935日目、よく晴れた土曜日の朝、新快速電車で

東に向かっている。


さて、昨夜はamazonプライムビデオで同窓会の最終回を見終えた。


まあ、難しい家庭の問題にはあまり触れずに、男女の愛だけに目を向けた無難な終わり方だったので、後味は思ったより悪くなかったが、少々無理はあった。


ということで次に観るドラマを探っている。


そういえば、昨日ジムでヨガをするのに並んでいたら最近よく話すようになった同年代の女性が後ろに並んでいたので、テレビドラマについて語り合って暇つぶしをした。


Tバーとか、何とかいうアプリを入れることで、無料で見逃し配信を観ることが出来るとか言っていた。


私の場合は、amazonプライムビデオで、昔のテレビドラマや映画を観ることで、今のところは満足している。


ほとんど誰とも話さずに並んでいることが多かったが、話をしながら待っていると、時間が経つのが早くなる。


もちろん気を使いながら話したのでは逆効果で、気さくに話せる人に限るのだが。


そして、話をするためには、その話のネタを持っていなければならない。


ネタを持つためには色々な事をやってみて、何かを感じることが必要である。


結局、全ては循環していて、相関関係は網の目のように複雑である。


だけど、都合の良いところだけを取り出して、ああだ、こうだと、議論している。


ただ世の中の全てを知るほど頭は良くないし、人生は長くはない。


結局は選択しながら生きるしかない。


もちろん、自分が考えられる最善の選択であって、世の中の常識には合っていないかもしれない。


そして、世の中の常識ほどいい加減で、移り変わるものはないのである。


そんな不確実な世の中を生きているからこそ、確実な愛に包まれていたいのである。


確実な愛が無理であれば、不安定な愛でも構わない。


愛のパッチワークでも構わない。


少しでも光が有れば生きていける。


まあ、一番簡単な方法は、自分がその光になる事である。


自分が光になれば、全てを照らす事が出来るからである。


今日は自分が光になってみよう。













退職後934日目、快晴の空、時々ホトトギスの鳴き声がする

公園のベンチで書いている。


amazonプライムビデオで観ていた同窓会も残すところ最終回のみとなった。


最終回の予告編まで観たが、相変わらずドタバタして終わりそうで、心臓に良くないが、観らずにはおれない。


視聴者の心を弄んで視聴率を稼いでいるスタッフの顔が見え隠れして、憎たらしくもあるが、一方で、感情移入してワクワクしている自分もいて、人間という生き物はよく出来ていると思う。


神が人間を作る時に、そこまでのことを考えて作られたのか、それとも、神とても、完璧ではないので、たくさんの未完成の部分を残したまま見切り発車されたのかは分からないが、罪なことをされたものである。(笑)


それなのに、人間ときたら、その本質があたかも自分の責任のように、自分に対して罪の意識を持ってしまう。


それを天で神が見て、涙してくれているならまだいいが、ドラマを見るように楽しんでいるとすれば、ちょっとムカついてしまう。


人は全てを背負い込む必要はないだろう。


そう言えば、高度成長期のころ、植木等が無責任時代という言葉を流行らせたように思う。


それは真面目な人間が全ての責任を負おうとすることに対する神の救いの言葉だったのかもしれない。


手に負えないことは神に任せよう。


人間は限られた時間しか生きられないのだから。