退職後548日目、2022年度最後の日、明日から新年度である
いよいよ春がやってくる。
昨朝は枯れ草で覆われた庭を少し整理した。
やっと草の合間から地面も所々見えるようになった。
ところが、今朝は全くやる気が起こらない。
朝からつげ義春さんの漫画を幾つか読んでいた。
この本はジャズ喫茶にこのシリーズの一巻目が置いてあって、それを読んで気に入って、買ったものである。
つげ義春という漫画家の自分のことを書いているようで、妄想の部分が程よくブレンドされていて、哀愁を感じるのである。
まあ、人間の根本的なものは変わらないのであろう。
現実と妄想の間を行き来して、時々区別がつかなくなって混乱するのである。
前に観た映画で、夢の中で夢を見るというややこしい設定の映画があったが、そのレベルでは、妄想も現実も紙一重である。
現実に生きすぎると、燃えかすのようなものが蓄積されて、真実の自分、即ち、魂を覆ってしまうのかもしれない。
適度に妄想をブレンドさせることは、肉体や精神に積もり積もった汚れやゴミを浄化するのに必要なのかもしれない。
妄想、もう少し現実的な言葉に置き換えたら、遊びかもしれない。
そういう意味では、仕事をしながらでも、遊びの要素を含ませることが出来るのが理想的と言えるのかもしれない。
まあ、これが出来たら遊ぶ必要も無くなって、私は仕事が遊びのようなものだとか、憎たらしいセリフを吐けるようになるのである。
まあ、憎まれるのも嫌なので、小心者の私には、区別する生き方が合っていたのであろう。
とはいえ、少しは憎まれても、歳とともに不感症になっているのかもしれないので、耐えられるのかもしれない。
歳をとると、良くも悪くも、蓄積されたものをどう出して、どう消すかで、アウトプットされる作品もバリエーションに富ますことができる。
節約の本でよくある、持っている服の組み合わせで、バリエーションを楽しむということかもしれない。
自分の出し方を工夫して遊ぶ、最高に経済的な遊びである。
その中で、突然変異のように、全く新しいものが生み出されないとも限らないだろう。
人生の喜びはどこに潜んでいるかもわからない。
新しい春に、自分の可能性を遊んでみる。
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