退職後412日目、今朝は朝一冊本を読み終えて、ジムに行ってZUMBA、帰ってからも色々あって、
この時間になってしまった。
朝読んだ本は、みんなが幸せになるホ・オポノポノで、書店では、以前、スピリチュアルのコーナーに平積みされていたことを思い出す。
当時、本屋さんで、さらっと立ち読みしたところでは、そんなに面白そうでもなかったので、そのまま記憶の片隅に放りさられていたのであるが、最近読んで感銘を受けた人見ルミさんの本の中で紹介されていたので、読んでみる気になったのである。
ちょっと理解しにくいところはあるが、雰囲気は分からないでもない。
ということで、その中に書いていることを色々実践しようとする自分がいる。
ジムから帰って来て、お風呂と食事を済ませて、小山清という作家の、風の便り、という今日図書館で借りた本を読んでいる。
先週の木曜日に行ったお気に入りのカフェで読み終わった、原田ひ香さんの古本食堂の中で、小山清の落穂拾い、という小説が紹介されていて、この小説が良かったので、図書館で更に風の便り、というエッセイを今日借りたのである。
あとはドラム式洗濯機の下を何年か振りに、洗濯機をずらして掃除した。
重すぎて、これ以上歳をとったら、動かせなくなるかもしれない。
昔の洗濯機は乾燥機能とか付いてない代わりに、とても軽くて、移動するのも簡単だったことを思い出す。
機能を充実させると重くなる。
人間も同じだろう。
何でもかんでも取り込めば、当然重たくなって、思考が硬くなる。
思考の余白が必要である。
ということで、記憶から不要なものは消していくことが必要になる。
ところが、潜在意識に詰まっているものまで消すのが厄介なのである。
そこで、スピリチュアルの世界では潜在意識の書き換えセッションとかが流行るのである。
ポオポノポノの教えがまさに、潜在意識に積もり積もったものを消し去ると、神聖なる知能に繋がることが出来るというものだった。
ということで、具体的にどういうことか分からなかったが、人が悟ったことを説明した本を読んでも、言葉では表現し難いものが多いのか、理解不能なものが殆どである。
悟りというのは、一人一人異なるので、ある人が悟ったことについて述べても、本当の意味で理解出来る人はいないのかもしれない。
それぞれが自分の宗教を持つしかないようである。
本当は、それぞれの人が、自分自身であるだけで、素晴らしいのかもしれない。
悟る過程が楽しいのである。
悟った瞬間に、死が待っているような気もするので、一生悟ることはないだろう。
とすれば、不完全な自分を生きるしかない。
そして、生きている全ての人が不完全と思えば、みんなが愛しくなる。
不完全さの中にしか、愛は存在出来ないのかもしれない。
完全さを求めるか、愛を求めるか、答えは自ずから出ている。
不完全な中で、愛を生きる。
その中にこそ、喜びは存在しているだろう。
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