退職後394日目、秋晴れ過ぎて、ウォーキング決定、気持ちのいい朝
ということで、公園のベンチからである。
昨夜はさそり座の新月だったので、ある方のインスタライブで新月瞑想をした。
手の上に月を置いた後、月を手の中に包み込む瞑想をするのであるが、手の中がとても熱くなった。
さそり座の新月は、要らなくなった縁を断ち切る日ということだったので、高校の時好きだった人との縁を断つと言ってしまった。(笑)
ちょうど46年前の今日の20時からテレビでやっていた、俺たちの旅を観ながら、その彼女に長電話したことがあった。
そういう記念の日に、縁を断ち切るというのも、何かの縁だろう。(笑)
そのかわり、新しい縁がまた巡ってくるらしい。
インスタライブの主催者は、女優であり、司会業をやったり、空中ヨガのインストラクターだったり、コンテストのスピーチ指導をされたりしている方であるが、その方もやっていた一つの仕事を昨日断ったので、また次の仕事が入るだろうと仰っていた。
とても確信を持っておられた。
その後カードを引かれたが、人前に出る、というカードが出た。
これは9月10日の魚座の満月の時に現れたもので覚えていたので伝えたら、その時の会話も思い出してくれて、盛り上がった。
ということで、今日からまた少しずつ月が満ちてくる。
月は満ちたり、欠けたりを繰り返しながら、何を教えてくれているのだろうか。
人生も満ち欠けがあるということを教えてくれているのだろうか。
ただ、月はいつも満月の状態で存在していて、見え方が満ち欠けしているだけである。
人間もそうだろう。
見え方は変わっても、中身はいつも完全体である。
外観に目を向けることに飽きたら、内面を見てみよう。
手塚治虫さんの火の鳥のように、永遠の命が燃え盛っているだろう。
偶然にも、昨日はアマゾンプライムで、火の鳥黎明編の一話を観た。
小学生の時、COMという雑誌に掲載されていて、読んだことを思い出した。
さすがに、図書館には無かったので、このアニメを観ることにする。
月の満ち欠けのように人生も満ち欠けがあるが、中身はいつも完成体である。
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