退職後525日目、雨の中、空中ヨガをするために三ノ宮に来ている
カフェで時間待ちのお茶をしている。
今日はまだ平日なので、電車の中は通勤途中のサラリーマンやOLがほとんどだった。
いつも通勤していた駅までは知っている人がいないか落ち着かず、寝たふりなんかしたりしていた。
まあ、幸いにも誰も知った人には会わなかった。
カフェも通勤途中のスーツを着たサラリーマンや、軽装でパソコンを操作しているノマドワーカーが多い。私の座っている長いソファの2mくらい先に今一人若い女性が座った。
こういう時は意識して顔を見ないようにしている。
が、知っている女性には平気でジロジロ見れる人の方が多い。
この差はなんなんであろうか。
たぶん、好奇心を素直に表せるか、恥ずかしがって表せないかの差であろう。
まあ、こんなことはどっちでも生きていく上で大差はない。
なのに、何か自分の性格に否があるように思える。
まさしく罪悪感である。
罪悪感から解放されたら楽だろう。
まあ、そう思う間はくっついて離れないだろう。
罪悪感と友達になろうと思った途端に自分の見えないところに消え去るだろう。
自分の顔を自分で見ることが出来ないように、同化してしまえば、見えなくなるものである。
ということで、離れたい物や事ほど取り込んでいこう。
じゃあ、逆に近づきたいものは、少し離れた方がいいだろう。
相手の姿が全体としてよく見えて、理解を深めることが出来る。
もちろん、見えない方がいいことだってたくさんあるだろう。
所謂、墓場まで持って行くことである。
昔読んだ本の中に墓場まで持っていくものは少ない方がいいと書いてあったことを思い出した。
来世の宿題が多くなるからであろうか。
私の場合は多すぎて、このままでは死んでいけない。
じゃあどうやって手放せばいいのだろう。
向き合うことだろうか。
向き合うという空間と時間が必要なのだろう。
と書いたものの、全くそんな気持ちにはなれない。
ということは、まだまだ時間が必要なのだろう。
ということで、今日もせっせと生きることにする。
そして、どうせ生きるなら、自分らしく、わがままに、今日の雨のように、たまには人の心を濡らし、そして、たまには、人の心に太陽の光を与える。
ピアノジャズが雨音のように流れる電車が見えるカフェにて記す。
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